バナナの皮は滑りやすい

思ったことを書くだけの日記

人の価値は人の数だけある

どうも、バナナの皮です。

 

 

日常の中でたまに私自身の価値を考える。

私はこの場に本当に必要なのか、私は要らないんじゃないか

 

別に病んでる訳ではないと自分に言い聞かせているが

ハタから見ると病んでる人なのかとも思う。

そうゆう心境の時のBGMは決まって鬼束ちひろである。

誰に吐露したいわけでもなく、ただ一人で自転車転がしながら悶々と考えるのだ。

 

時折、私の雰囲気から何かを察して聞いてくる人がいる。その際は3割ほど自分の気持ちを伝えるのだが

自分で良ければいつでも話しておいでよ、なんて優しい言葉をもらえる。

 

ただ、人に話したところで何が解決するわけでもなく

結局解決するのは自分でしかない。

 

周りは言う、自分の考え以外を取り入れることも大事だと。

 

きっと話したところで

 

私は必要としてるよ

みんな必要としてるよ

 

なんて安っぽい言葉が飛び交う。

 

安っぽいというと失礼かもしれないし、実際必要としてくれている人もいるかとは思う。

 

だけれど如何せん捻くれてるので

「この言葉の裏で面倒な女だと思ってるんじゃないだろうか」と素直に受け取れず

逆に悩みが増えるだけなのだ。

 

 

それに加え、何かを話した時に「解る」と言われるのが死ぬ程嫌いである。

 

だから自分が人から相談を受けた際は絶対に言わない言葉として封印してある。

 

解る訳ねえだろ。何が解ったんだ。

 

 

そんな考え方なので

基本的には心の内を誰にも話さないよう徹底している。

 

だからなのか

何を考えてるか解らない、と口々に言われる。

 

 

 

解らなくていいんだよ。解られてたまるか。

 

 

 

 

 

 

「そうゆう時は、こうゆう風に考えればいいんだよ」と助言をくれる人もいる。

 

ただそれはその人がそう考えれる人なだけであって

人の性格や考え方とゆうものはそう上手い具合に変えれない。

 

例えば知人に心ない言葉を投げかけられ

その言葉で傷をおった時

「そんなやつの言葉気にしなくていい」と、人は簡単に言うけれど

気にしなくて済む性格なら最初から気にはしていないのだ。

 

でも、もし私が同じ相談を受けたら多分こう返す。

「そんなやつ、心の中で馬鹿にして放っといたらいい」と

自分にできない助言をする。

 

私だけではないと思うのだがどうだろう。

 

もしかしたら、自分がそうなりたいと思っている "憧れ" を人に助言しているのかもしれない。

 

 

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まだ先の話だとは思うが

もし自分の命が終えた時

 

あの人は

いつも笑ってたね

 

 

と、笑っていた私を覚えていてほしい。

 

 

それが人生の最終目標である。

 

いつか潰れるぞ、と言われたこともあるが

今まで潰れず生きてきているんだ。

そう簡単に潰れない。馬鹿にすんな。

 

 

強がりで見栄っ張りなのかもしれないが

それもまた私の人生なのだろうし

もしこの先潰れたとしても

私は必ず這い上がるつもりだ。

 

 

ここまで書いて何を言っているのかと首を傾げられるかもしれないが、

なんだかんだ私は周りの皆が好きである。笑っていてほしいと思う。

 

 

爪痕を残せるほど大げさな生き方はしていないが

皆が私に笑いかけてくれた分

記憶の中での私はいつでも笑っていたいのだ。